2012年04月25日
『震災がれき処理』をどう考えますか?
「震災がれき処理」については今月初めに北海道新聞で特集が組まれ、その中で北海道知事と札幌市長が正反対の意見を述べていました。各自治体の首長も判断を迫られている状況ですし、道民の関心も高い事柄になっています。
そしてここ数日のこと、北海道自治体学会のメーリングリストで「地域の自治」をテーマに議論が展開されているのですが、そこに事例として「原発の再稼働」や「震災がれき処理」が取り上げられました。
私は以前から廃棄物に関心があり、廃棄物資源循環学会の会員であることもあって、このメーリングリストの議論に参加、自分の考えを書き込んでいます。
この『震災がれき処理』の問題は非常にデリケートですが、限定された場所であっても自分の考えを表明した以上、このブログにも掲載しオープンな議論を展開したいと考えています。
以下に、私がメーリングリストに書き込んだ文章をそのまま掲載します。これに対する皆さんのご意見やご感想などをぜひお寄せください。匿名でもOKですので、どうぞよろしくお願いします。
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月形町の宮下裕美子です。
皆さんの意見に触発されて、標題とは少しズレるかもしれませんが、1つの視点として書き込みします。
○○さんから「核」関係の話題が出ました。
泊、がれき受け入れ、幌延、大間・・・私自身が物理的に近いものだけで、こんなにあります。
今後、この問題のいわゆる「立地地元」自治体が過去の原発立地自治体と同じ決定をした場合、私は躊躇なく、その自治体を加害者と呼ぶつもりです。
泊、幌延、大間=核関連施設の再稼働や建設等については、
■ 福島第1原発の検証が不十分な段階で進展はあり得ない。
(原因究明がなければ的確な対策が打てないから。)
■ 核廃棄物の安全な処理が確立されていない状況で、これ以上核のごみを出し続けること
(=原発を稼働させること)が最も大きな問題。
■ 3.11の地震以降、活発な地震活動が起きていて、またいつ大地震が起きても不思議でない状況。
などの問題点と不確かな状況があります。現状ではまだ、立地地元が判断をする次元の問題ではないと考えます。
一方「がれき受入」は、これらと同列の問題ではないと考えます。
「がれきの受入」は既に起きたことの後始末であり、実態把握が充分にできる問題です。調査と調整は必要ですが、各自治体が独自の視点で判断できる問題だと考えます。
というのも、反対理由としてよく言われる
「放射性物質が含まれる可能性があるがれきであるから、受入は危険性が高く将来にも禍根を残す」
は1つの視点にすぎず、必ずしも現実を表していないと思いますし、むしろこの考え方には誤解(北海道が「清浄な大地」という思い込み)があるのではないかと思うからです。
今回福島原発の件があって、放射性物質や放射能に対して敏感になっていますが、過去を振り返れば、放射性物質が大気中に放出されたことは何度もあります(チェルノブイリなどの原発事故、戦争や戦闘時の原爆や劣化ウラン弾の投下、原・水爆開発実験など)。それらから排出された放射性物質は、極薄くではあるものの地球全体にまき散らされて、もしそれらが活発に行われた時期に今と同じ精度の観測機器と敏感な意識があれば、北海道でも放射能を観測できたでしょう。
つまり地球上に「清浄な土地」は既に無く、今語られるべきは「定性でなく定量=放射能があるかないかではなく、どの程度含まれるか」になっています。
この視点で今回の「がれき受入」を考えると・・・
■ 対象となるがれきは宮城県、岩手県のもののみ
■ 搬出時に測定し、放射能が基準値以下のもの
■ 放射性物質が付着しているとしても、その発生源は福島原発事故時。
放射能は付着時をピークに減少している。(全ての放射能が完全になくなるには数万年を
要するかもしれないが、少なくとも発生時より増えることはない。)
であり、監視は充分可能です。基準値が適正かどうかが意見の分かれるところですが、現状で示されている数字は様々な事象から総合的に検討された値であって、(定量的に)妥当性があると考えます。(現在の科学は物質の組成をある程度分析でき、それを定量的に管理して活用しています。絶対安全はあり得ませんが、安全性の高さは考察できます。)
これらを踏まえた上で、各自治体が判断すればいい=判断できる次元の問題と私は考えます。
今、放射能や放射性物質が大きく取りざたされ不安の元凶になっていますが、知らないから不安になるのであって、現実にはもっと注意しなければならないことがあるのではないでしょうか?
「震災がれき」に関しても、極わずかな放射性物質よりも、野積みしている「がれき」が自然分解していく過程で大量に発生するメタンを代表とする様々な物質は、周辺住民に様々な影響を与えます。それを早急に解決するには周辺からの手助けが必要で、私たちがその手段を持ち合わせているとするなら、私たちは行動すべきと考えます。