2012年05月15日

春爛漫

あっという間に5月も半分が過ぎました。
(左の写真は5月13日の夕方、陽が落ちてすぐの頃に撮影。春爛漫をお伝えするには不似合いの写真で、ちょっと反省。月形町の今の雰囲気だけでも味わってください。)

4月に入ってからの暖かな陽気と日射しで、あれほどあった雪がみるみる融けて、28日には積雪ゼロとなりました。例年より半月遅れだった春が、その後、駆け足でやってきて、今まさに春爛漫です。

桜は先週一気に咲いて既に名残。役場前のキタコブシも盛りを過ぎて、白い花びらが色を変えていました。道端ではエゾエンゴサク、ヒメオドリコソウ、ニリンソウが咲き乱れ、イタドリはすくすくと育って大きく葉を広げ、フキは既に花径を伸ばして大柄な植物に変身。山に目をやると、樹木が今まさに芽吹きの時。何とも微妙な色合いの春紅葉が心を和ませてくれます。

毎年春先に訪れるマガンと白鳥は雪融けにあわせてやって来るので、今年は遅れてゴールデンウィークがピーク。でしたが、いつもの年とは様子が違っていました。

これまでは田んぼの雪融け水がピチャピチャとあるの中で落ち穂を探し餌場を移動していたのですが、今年の春は一気に暖かくなったのと水田の暗渠工事が進んだのとで、平地にはたまり水がほとんどなかったのです。

その一方、須部都川には一気に融けた雪融け水が押し寄せ、1週間〜10日も大水が出て一時は警戒するほど。まるで湖のような状態でした。(右の写真は4月29日撮影)

マガンはほとんど近づくこともなく、白鳥は大群で須部都川の河川敷に陣を張り、ねぐらにしたり、牧草の新芽をついばんだり。今まで見たこともないような不思議な光景で、物珍しさにたくさんの人が堤防に集まるほど。こういうこともあるんですね〜。

さて、私の仕事は・・・

ここしばらくは年度初めの各種総会に出席、合間に興味のある勉強会にも顔を出し、その傍ら雑誌の原稿などを書いています。また農作業では豪雪被害のハウスを修復、一部は苗の植え付けを終えることができました。

この1ヶ月、目の前の仕事に追われて時間をとることができなかったのですが、ようやく一息つけ、ブログの更新もできそうです。これから追々お伝えしていきます。

2012年05月06日

42年ぶりの[原発ゼロ]に思う

2012年5月5日、国内で唯一稼働していた原子力発電所/北海道泊3号機が定期検査のため停止。これで、国内にある商業用原子力発電所50基全てが止まり[原発ゼロ]の状態になった。

東日本大震災が起きるまで、こんな早い時期に[原発ゼロ]の日が来るとは・・・考えられなかった。
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というのも、私が小学校で習ったのは「日本の電力は、火力7割、水力2割、原子力1割」の時代で、原子力発電が既に生活の一部になっていた。それにオイルショック以降「原子力発電は安定的な電力源」と言われ、割合を増やしているときだったから。
それから「原子力発電は需要があってもなくても一定量発電するので、夜間は余剰電力となってムダになってしまう。それを活用するのが揚水式発電(夜の間に水をくみ上げ、昼間に水力発電する方式)。家庭向けには夜間電力割引を導入して、需要の平準化を計っている。」とも教わった。
「へ〜」と感心したので頭に強く残った。原子力発電は極当然に暮らしの一部だった。

その後【核廃棄物と処理】の問題を知り「原子力発電を続けて大丈夫なのだろうか?」と疑問が湧いてきた。

そして【スリーマイル島原発事故】【チェルノブイリ原発事故】。どちらも衝撃的で、報道に釘付けになったのは言うまでもないが、私の中で最もショックだったのは1999年に起きた【茨城県東海村JCO臨界事故】。
放射性物質を扱うのは徹底管理された場所と人だけだと思っていたのに、普通の実験棟の中でバケツを使って混合するなんて!! そんな簡単に放射性物質を扱う人がいることが信じられなかった。
ラジオから流れる事故の第一報で「作業員が、青い光を見た」と聴き、全身に鳥肌が立ったのをハッキリと覚えている。開放された空間で臨界が起きているなんて!! 放射線を浴びるとはどういうことか、生々しい現実を目の当たりにして身がすくんだ。

しかしながら政府は「温暖化防止のためにはCO2削減が欠かせない。原子力発電は有効」という展開に。この論理展開に全く納得できなかったが、いつしか原発は全電源の3割(北海道電力では4割)を占めるまでになっていたし、これからも延びる計画に・・・。「原発がゼロになる」なんて、とても考えられなかった。少なくともあと20〜30年は、今のままでいってしまうと思っていた。

2011年3月11日・東日本大震災発生。【福島第1原子力発電所事故】
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原子力発電が停止しているこの状況は、私たちから下の世代には初めての状況になる。
安定的に昼夜の分けなく供給される電気があることが前提で構築された暮らしは、もう過去のモノ。
今まで良しとされたものが、そうでなくなった。
今まさに《転換点》を迎えている。

そしてもう一つ。
国が決めたこと、国が望むことが最優先される時代ではなくなった。
個人の考えを表明する場も、つながる手段も増え、共感することが大きな力になる時代になってきた。
一人一人がどう考えるか、どう行動するか
地域がどう考え、どう行動するか
意思決定の方法も責任も、《転換点》を迎えていると感じる。

2012年04月25日

『震災がれき処理』をどう考えますか?

「震災がれき処理」については今月初めに北海道新聞で特集が組まれ、その中で北海道知事と札幌市長が正反対の意見を述べていました。各自治体の首長も判断を迫られている状況ですし、道民の関心も高い事柄になっています。

そしてここ数日のこと、北海道自治体学会のメーリングリストで「地域の自治」をテーマに議論が展開されているのですが、そこに事例として「原発の再稼働」や「震災がれき処理」が取り上げられました。
私は以前から廃棄物に関心があり、廃棄物資源循環学会の会員であることもあって、このメーリングリストの議論に参加、自分の考えを書き込んでいます。

この『震災がれき処理』の問題は非常にデリケートですが、限定された場所であっても自分の考えを表明した以上、このブログにも掲載しオープンな議論を展開したいと考えています。

以下に、私がメーリングリストに書き込んだ文章をそのまま掲載します。これに対する皆さんのご意見やご感想などをぜひお寄せください。匿名でもOKですので、どうぞよろしくお願いします。
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月形町の宮下裕美子です。

皆さんの意見に触発されて、標題とは少しズレるかもしれませんが、1つの視点として書き込みします。

○○さんから「核」関係の話題が出ました。

泊、がれき受け入れ、幌延、大間・・・私自身が物理的に近いものだけで、こんなにあります。
今後、この問題のいわゆる「立地地元」自治体が過去の原発立地自治体と同じ決定をした場合、私は躊躇なく、その自治体を加害者と呼ぶつもりです。

泊、幌延、大間=核関連施設の再稼働や建設等については、
 ■ 福島第1原発の検証が不十分な段階で進展はあり得ない。
   (原因究明がなければ的確な対策が打てないから。)
 ■ 核廃棄物の安全な処理が確立されていない状況で、これ以上核のごみを出し続けること
   (=原発を稼働させること)が最も大きな問題。
 ■ 3.11の地震以降、活発な地震活動が起きていて、またいつ大地震が起きても不思議でない状況。
などの問題点と不確かな状況があります。現状ではまだ、立地地元が判断をする次元の問題ではないと考えます。


一方「がれき受入」は、これらと同列の問題ではないと考えます。
「がれきの受入」は既に起きたことの後始末であり、実態把握が充分にできる問題です。調査と調整は必要ですが、各自治体が独自の視点で判断できる問題だと考えます。

というのも、反対理由としてよく言われる
「放射性物質が含まれる可能性があるがれきであるから、受入は危険性が高く将来にも禍根を残す」
は1つの視点にすぎず、必ずしも現実を表していないと思いますし、むしろこの考え方には誤解(北海道が「清浄な大地」という思い込み)があるのではないかと思うからです。

今回福島原発の件があって、放射性物質や放射能に対して敏感になっていますが、過去を振り返れば、放射性物質が大気中に放出されたことは何度もあります(チェルノブイリなどの原発事故、戦争や戦闘時の原爆や劣化ウラン弾の投下、原・水爆開発実験など)。それらから排出された放射性物質は、極薄くではあるものの地球全体にまき散らされて、もしそれらが活発に行われた時期に今と同じ精度の観測機器と敏感な意識があれば、北海道でも放射能を観測できたでしょう。

つまり地球上に「清浄な土地」は既に無く、今語られるべきは「定性でなく定量=放射能があるかないかではなく、どの程度含まれるか」になっています。


この視点で今回の「がれき受入」を考えると・・・
 ■ 対象となるがれきは宮城県、岩手県のもののみ
 ■ 搬出時に測定し、放射能が基準値以下のもの
 ■ 放射性物質が付着しているとしても、その発生源は福島原発事故時。
   放射能は付着時をピークに減少している。(全ての放射能が完全になくなるには数万年を
   要するかもしれないが、少なくとも発生時より増えることはない。)

であり、監視は充分可能です。基準値が適正かどうかが意見の分かれるところですが、現状で示されている数字は様々な事象から総合的に検討された値であって、(定量的に)妥当性があると考えます。(現在の科学は物質の組成をある程度分析でき、それを定量的に管理して活用しています。絶対安全はあり得ませんが、安全性の高さは考察できます。)

これらを踏まえた上で、各自治体が判断すればいい=判断できる次元の問題と私は考えます。


今、放射能や放射性物質が大きく取りざたされ不安の元凶になっていますが、知らないから不安になるのであって、現実にはもっと注意しなければならないことがあるのではないでしょうか?
「震災がれき」に関しても、極わずかな放射性物質よりも、野積みしている「がれき」が自然分解していく過程で大量に発生するメタンを代表とする様々な物質は、周辺住民に様々な影響を与えます。それを早急に解決するには周辺からの手助けが必要で、私たちがその手段を持ち合わせているとするなら、私たちは行動すべきと考えます。

2012年04月22日

雪融け! 劇的に変化する風景

4月も中旬以降、穏やかで暖かい日が続き、風景が刻一刻と変化しています。

4月中旬は月形町全体が一日中霧に包まれる日が何度も。

これは日射しが強くなって融雪が進み、たくさんの水分を蓄えた空気が積雪によって冷やされ、地表面に霧が発生したもの。日射しが強く無風状態が続くからこその霧です。

とても幻想的な光景でした。(写真は4月17日撮影)


そしてここ数日は春霞の穏やかで暖かい日が続きました。

朝の気温もいつの間にか氷点下まで下がらなくなり、日中は日射しとわずかな風で雪はどんどん融けていきます。その雪融け水は雪面の端から渾々と湧き出すようにして小川になり、圃場の中を走り去っていきます。

ハウスパイプのように熱を吸収するものの周辺や、地面の高いところで土が顔を出し始めました。いよいよクライマックス、長い冬の終わりで〜す。
(2、3枚目の写真は4月19日撮影)


そして本日。3月中に融雪剤(黒色の炭粉)を散布した所はほぼ全面すっかりと融け、黒々とした土が出てきました!!! (右の写真は4月22日撮影)

と同時に、無残なパイプハウスもあらわに・・・

我が家の場合、雪害で全壊したパイプハウスは 26 棟中 14 棟。部分損壊が 2 棟。
必死で守った越冬ハウス(ビニールを掛けた状態で冬を越したハウス)4 棟は無事=現在、種の発芽待ち&苗の育成&宿根草の生育に活用。
他に雪の下に収納した小さなハウスが 6 棟=こちらはまだ雪の下。

修復し作付けするまでには相当の労力と時間を要しますが、やらなければ収穫も望めないのが現実。ここは一つ頑張るしかないですね。(先日、1棟が修復を終え、ほぼ元通りに復旧できました♪)

とは言え、全ての復旧と作付けを同時並行で進めるのは至難の業。今年は作付け品目/労力/経費と相談し、できる範囲で復旧していく予定です。
具体的には、壊れたいくつかのハウスを修理後合体して1つのハウスに建て直したり、栽培時期に合わせてハウスを移動させたりすることも検討。景気低迷の折、極力負債を抱えず(お金をかけず)に知恵と体力で復活を目指します。

めげそうな程の状況ですが、『ピンチはチャンス』。こういうときこそ作業内容や手法を見直す絶好のチャンスであるはず。必然的に【本当に必要なもの】を見いだすことができます。
転んだからにはタダでは起きませんよ〜! ガ・ン・バ・リ・マ・ス!

2012年04月18日

故林かづきさんを偲んで

江別市議会議員だった林かづきさんが、昨日亡くなりました。まだ42歳、子宮体がんでした。

今朝、自治体学会のメーリングリストで訃報を知り「えっ!」と驚いたのは言うまでもありません。一年前から闘病していたのは知っていたのですが、快方に向かっているとも聞いていたので・・・
残念です。


私と林さんはともに平成19年の統一地方選で初当選した、いわば同期です。

林さんは石狩管内の市議、私は空知管内の町議。組織が分かれているので通常の議員活動ではまず出会わない二人でしたが、お互い足の向く方向が同じというか、議員になってすぐから様々な勉強会や講演会で顔を合わせるようになり、(私にとって)気になる存在になっていきました。

というのも林さんはいつも、わずかな休憩時間や終了後に講師の先生と名刺交換したり、談笑したり。年齢も近く同姓で同期でありながら積極的で自信にあふれた姿は、私にとって「ちょっと先を行く」存在でした。「私も頑張らなくっちゃ」と、私のシャイな部分を奮い立たせる原動力になっていたのです。


その後、月日を重ねるうち同じ壇上に上がる機会(地方自治土曜講座「議会は変わるか? −議会改革の諸問題−」)を得たり、林さんの発表(北海道自治体学会フォーラム in えにわ2010北海道自治体学会・政策シンポジウム、他)を聞いたり。次第に意見交換や議論をするようになっていきました。

林さんと私の目指すものはたぶん同じです。ただ林さんは政治に関わることを念頭に勉強を重ねてきた人で、法学部出身、公共政策大学院修了、国会議員秘書も経験した正統派。かたや私は政治とは全く無縁の学生生活を送り、農業や子育てをしていくうちに議会の重要性を感じて議員になった人間。
同じものを目指していても方法論が違ったり、視点が違ったり、いつも新鮮な議論ができました。


他にも林さんから影響を受けたものはいくつもあります。日々のブログやホームページはいつもチェックし動向に興味を持っていましたし、「林かづきの市政広報誌/江別から笑顔を発信!」や雑誌への寄稿文(日経グローカル2010年9月20日号「奮闘地方議員」他)では、発信力や考えを文書に残すことの重要性をいつも示してくれました。

折しも現在、私も日経グローカル「奮闘地方議員」への寄稿文を準備中で、つい最近、林さんの原稿を読み直したところでした。リズム感とまとまりのある文章に流石だなあと。私もこんな風に考えをまとめられたらと・・・


色々思いだし、何だかまとまりません。
いずれにせよ、林さんは私にとって同志でした。謹んでご冥福をお祈りします。
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実は林さん、4月9日に江別市議会議員を辞職されています。体調がすぐれず市民の負託に応えられない以上、議員ではいられないとケジメをつけたとのこと。また、本日の葬儀も林さん本人は「家族葬」を希望していたそうです。
(ただご家族で話し合った結果、支援者や地域のみなさんに最後のご挨拶をすべきと考え「偲ぶ会」「お別れの会」の形になったとか。葬儀会場にはあふれんばかりの参列者が訪れ、林さんの死を悼みました。)

いずれも「林さんらしい」。きっと誰もがそう思っていることでしょう。

林さんが亡くなったことで、人生の儚さを痛感しました。それと同時に、私たちには限られた時間しかないことも。
特に議員として活動できるのは様々な環境が整い選挙に出て当選してからの任期中、それも健康である期間だけです。思いのほか短いのかもしれません。だからこそ、現職の議員である私たちは、議員にしかできないことをしなければ。

議員に不作為は許されない。再認識した今日です。

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