2010年07月06日

平成22年度 北海道町村議会議員研修会

7月1日午後、札幌コンベンションセンターにて北海道町村議会議員研修会が開催されました。

全道各地から約2,000人の町村議員と事務局員を集め毎年行われるこの研修会ですが、本当に意味のあるものになっているのか、ますます疑問に思うようになりました。
コンベンションセンター周辺は全道各地から集まったマイクロバスがごった返し、排気ガスで目が痛いほど。玄関外の喫煙所には大勢集まり、開会前と閉会後(研修最中は分かりませんが・・・)は横をすり抜けるのも大変なほど。2,000人もの人が入った研修会場は参加者と講師とが遠く離れ、スクリーンに映し出される様子を見なければ分からないほど。
このような状況なら、「ネットやテレビの講演でも同じではないか・・・」「まして講師がマスコミに出演するような人なのだから、あえてこの場で聞かなくても聞く機会はある。」と思うのは私だけではないでしょう。

全道から一堂に会し研修を行う意味は? 

私には分かりません。もちろん普段会えない他地域の議員さんと挨拶を交わすことができるのは魅力ですが、同じ思考を持った議員であるなら、この場でなくてもそれぞれの活動の中で会える機会はあるでしょう。また情報交換なら電話やメールもあるわけで・・・

もしこれがワークショップ形式の実践的研修や、町村議会の抱える課題に向かって現実に努力している議会や議員の体験や成果の発表、青年の主張のように「町村議会議員の主張」を募集し発表する場であったなら、どれほど有意義かと考えます。この場に参加しなければ聞くことができない内容であり、創造的な研修だからです。(若手市議会議員の中では主張大会のようなものが既に存在します。)もし機会があったら、執行部に提案したいと考えています。

さて講演内容ですが、要点のみ以下に記します。
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『農業ビッグバンの経済学 ーグローバル化と人口減少時代の農政改革ー』
           経済産業研究所 上席研究員  山下一仁氏

■改革の必要性
・日本の農業は1960年代までの100年間、ほとんど変化していない。60年代以降衰退。
・食料安全保障の上で重要なのは「農地資源(農地面積)」
・戦後700万ha今日まで増やした農地は、現在460万ha(宅地化や耕作放棄などにより減少)
・少子高齢化と人口減少で米の消費量はますます減少。品種改良が進み、反収は増加する。
 → 需要に必要な水田面積は少なくなる = 農地資源の減少

■日本の農業政策
・他の国より高い関税をかけているのに、日本の農業は衰退している。
 → 国内にその原因があるのではないか。
・「高い関税」とは、高い価格で農家を保護していること = 消費者の負担による保護
・財政負担による農家保護 = 中山間地等の制度
・現状では、高い関税による農家保護(4兆円)>>財政負担による農家保護(0.5兆円)
・農業基本法の考え方=米の消費量が下がる中、価格と生産量を上げるわけにはいかない。
           コストを減少させるため、大規模化や品種改良を行う。
・戦後:小作農の解放(農地法の改正)と零細農業構造の改革をめざしたが、
 60年代:農業基本法の考え方を無視し米価を上げる政策(減反政策)をとり、
     第2種兼業農家が残った。

■改革内容
・減反廃止と、対象者を絞った直接支払い(農家所得補償)をセットで行う。
 = 米価の下落により消費者負担による保護は減少。
   直接支払い(財政による保障)で農業の効率化を促進
・年々、中国産米の価格は上昇している(中国の労働コストが上昇しているため)
 → 日本産米の価格下落が起きれば国際競争力がつき、中国産米とも渡り合える。
○減反政策を廃止し、対象者を絞った直接支払いを行い、米を海外に輸出することで、
 日本の農業を守ることができる。

『政局展望』    白鳳大学法学部 教授 福岡政行氏

■7月11日投開票の参議院選挙の状況について
■民主党政治について

※選挙期間中なので、ここに内容を記すことは不適当と判断しました。
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今年の北海道自治体学会シンポジウムのおり、石井吉春先生(北大公共政策大学院教授)も山下氏の講演内容と同様のお話しをされていました。第一線で活躍する経済学者が同様の考えを持って農政を見ていることに興味をそそられました。

私は上記の考え方が理解できるものの、農業の多様性や多面性は必要と考えています。今も一部で行われている「生産性と関係しない直接支払い」「環境直接支払い」「条件不利地直接支払い」などの制度も、『農地の維持』という観点で今後も継続されるべきと考えます。効率化を優先し大規模化や集約化を進めたとしても、自然条件に左右されたり不慮の病害の影響を受ける農業は、リスク分散が何よりも重要と考えるからです。

農政については様々な考え方や地域特性があることから、今後も注意深く見つめ、学びも深めていきたいと思います。

2010年07月05日

開町130年記念 第30回行政区対抗ソフトボール大会

7月4日(日)、円山公園野球場で毎年恒例の行政区対抗ソフトボール大会が開催されました。
今年はずっと暑い日が続いていますが、この日も陽射しが強くジリジリ・・・。昼前から雷が鳴り出してちょっと心配でしたが、大会終了(午後2時半)までは降らずに済みました。

  
今年は第30回大会、加えて開町130年記念の冠の付いた大会です(だからといって特別な何かがあったわけではありません。あしからず)。前日の記念式典の余韻を引き継ぎ、何となくお祭りムードだったような、無かったような感じでした。

今年の参加は7チーム(市南A、市南B、市北、赤川A、赤川B、中和、札比内)。中でも札比内チームは十数年ぶりの参加と言うことで、盛り上がらないわけがありません。プレーヤーも応援も大声を出し、笑い、やじりやじられ楽しいゲームでした。
小さい頃から知っている仲間同士だから、近所で暮らす間柄だから、同じ職場で毎日顔を会わせる者同士だから・・・どんな言葉も「楽しさ」に変えられるのでしょう。田舎の楽しさ全開です。

試合結果は【優勝】赤川B 【準優勝】市北 【3位】市南B 【4位】中和

試合後の懇親会はどこも盛大だったようです。もちろん私たち市南チームも車庫で焼き肉!! 4時過ぎにスゴイ雷と大粒の雨で驚いたものの、ケガもなく無事に行事を終え、心地良い疲れと日焼けの痛みと共に楽しいお酒をいただきました。

さあ、次の行政区対抗試合は2月のミニバレーボール大会。
「また頑張ろうね」「赤ちゃんはお父さんに預けて一緒にやろうね」「今度こそ勝つぞ」「バレーならやれる」「また飲もうね」・・・言葉をかけ合い、気合いを入れて、解散。

2010年07月01日

平成22年度 月形町戦没者追悼式

本日午前、樺戸神社境内脇の忠魂碑前で「戦没者追悼式」が行われました。
朝からいつ降り出してもおかしくないお天気で、40分ほどの式典途中には雨の落ちる場面もあり、いつになく寂しさと悲しさが同居する追悼式になりました。

今年は戦後65年。参加する遺族の方はますます少なくなり、10人ほど。お身体が不自由になった方も多かったのですが、精一杯の追悼の気持ちを献花に込めている姿が印象的でした。

折しも今年は開町130年。そして今日がその当日でした。

挨拶に立った代表者の言葉にもそのことは詠われ、明治初期にこの地を拓こうと決めた人々も、そこに強制的に集められ北海道の道路を拓いていった人々も、「戦争」によって命を落とした方々も、月形町の130年の歴史のページにあることを実感しました。

「先人の労苦の上に今の私たちの生活がある」 まさしくその通りなのです。

戦争体験が平和への祈りとなり、戦後65年の現在、日常生活に戦争の気配をほとんど感じません。
昭和40年代、年間1万人以上の死者が発生した「交通戦争」も多くの努力で改善し、「戦争」とは呼ばれなくなりました。

しかし現代社会には「戦争」と呼ばれるに匹敵する「年間3万人を超す自殺者」の存在があります。時代時代に「戦争」と呼ばれる課題があるとすれば、私たちはこの自殺の問題を真正面に捉え、克服していくことが、先人の労苦に対して報いる一つの方法なのではないかと考えさせられました。

2010年06月30日

歴史伝承事業講演会「道央開拓と樺戸集治監」

6月26日(土)午後、月形町交流センターにて、月形町郷土史研究会会長の熊谷正吉氏による講演会が開催されました。この歴史伝承事業講演会は、開町130年を機に月形の歴史を掘り起こそうと昨年から始められた事業で、今回が4回目になります。

午前中に行われた「田空ツアー」参加者はもちろんのこと、月形町の歴史に興味のある町内外の人々、そして「網走監獄友の会」の皆さんなど、60名近い参加者がありました。

講演の内容は、熊谷正吉さんの研究成果をまとめた著書「樺戸監獄」北海道新聞社(1992年刊行・絶版)に沿って進められました。以下、私の視点で要点を記します。
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歴史伝承事業講演会「道央開拓と樺戸集治監」 
 講師 熊谷正吉氏(月形町郷土史研究会会長)

■樺戸集治監の設置まで
・江戸時代は藩毎に牢が設置され運営されていた。
 その名残で廃藩置県後も各県が牢を運営。

・明治の混乱期、大量の政治犯や凶悪犯が出るも
 県牢は小規模で対処できなくなった。

・明治12年、国の直轄の大規模な牢を、宮城集治監(仙台)と東京集治監(東京都小菅)に新設

・明治14年(1881年)、全国で3番目の集治監がシペツプト(現在の月形町)に設置される
 (東京・宮城集治監の過剰拘禁状態の緩和、危険分子の隔離、
  安価な囚人労働力の利用による北海道開拓、満期後は北海道に定住させ人口増のもくろみ) 

■月形(シベツプト)に集治監を開くことになった理由

・水運に長けた石狩川がすぐ近くにある
・開拓使本庁(札幌)に近い
・自給自足のための平らで肥沃な土地がある
・前方に石狩川、背後に山があり、天然の要塞となっていた
   ↓
 道内3カ所(十勝川流域、羊蹄山麓、シベツプト=月形町)の候補地から選定される

■開町当時の状況
・明治14年(1881年) 樺戸集治監(月形町)設置。

・明治15年 開拓使の廃止。北海道は函館県・札幌県・根室県の3県に分轄。
      空知集治監(三笠市)設置・・・質の良い石炭のとれる幌炭坑がある。
      三笠ー小樽間に道内初の鉄道。

・明治18年 金子健太郎による「北海道3県巡視復命書」
      ・・・北海道横断道路の必要性、道路開削に囚徒を用いるべし

・明治19年 国の直轄だった樺戸集治監は、空知・釧路集治監と共に北海道庁の管轄下に。
      道庁の命令により、樺戸集治監の囚徒を使役して上川仮道路の開削工事に着手。
      市来知(三笠市)から忠別太(旭川市)までの140kmを約4ヶ月で完成。

・明治22年 拡幅改良工事を行って、上川道路が完成。
      完成と同時に屯田兵が北海道内陸部まで入植。空知・上川地区の開拓が急速に進む。

・明治24年 樺戸集治監は名称を「北海道集治監」に改正。
      樺戸を本監にし、空知、釧路、網走を分監とする。

・明治34年 空知・釧路の両分監は廃止。釧路分監網走出張所は網走分監となり残る。

・明治36年 全国の集治監は名称を監獄と改め、司法省の直轄となる。
      北海道集治監樺戸本監は樺戸監獄と改称。十勝分監は十勝監獄として独立。

・大正8年(1919年) 樺戸監獄は廃監。
      樺戸監獄に関する一切の事務は、この年に監獄に昇格した旭川監獄に引き継ぐ。
      囚人達の大半は網走監獄へ移動。

■その後
・昭和58年(1983年) 月形刑務所開庁(中野刑務所移転による設置) 収容定員600名。
・平成19年(2007年) 増築工事完成。収容定員 1,844名に。

■まとめ
北海道の開拓の先駆者となった当時の3集治監の囚人。そして常に危険と対峙しながら囚人を戒護し、時には囚人の作業を補佐した看守。これらの人々があってこそ、北海道が今日のごとく発展できたのではないだろうか。
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熊谷さんの講演は、すぐそこで歴史か紡がれているような臨場感があります。それは地域に埋もれた歴史を丹念に紐解き、積み重ねていってできあがった歴史観から発生するものなのでしょう。当時の囚徒や看守に対する深い愛が感じられる、人間味あふれる講演でした。

囚人(囚徒)による開拓の歴史は今まで語られることは少なく、闇の部分として封印されてきたといえます。しかし、その歴史を背負う私たち月形町民は、その事実を学び、広める役割があるのではないかと考えさせられました。

熊谷さんの地道な研究がなければ分からなかった私たちの町の歴史。
これからも大事に受け継いでいかなければと強く思った講演会でした。

熊谷さん、ありがとうございました。

2010年06月29日

田園空間博物館樺戸地区・月形エリア施設見学会(2)

田園空間博物館樺戸地区・月形エリア施設見学会(1)のつづきです。

【北漸寺】
樺戸集治監には教養の高い政治犯が多いことから、位の高い僧が必要と政府から要請され、永平寺の直末寺として建立されました。樺戸山北漸寺は今も周辺地域(美唄、栗沢、浦臼、新篠津)に計10の末寺を持っていて、月形のような田舎の小さな町にあるお寺としては非常に珍しいとのことです。
本堂は水害や火災にも遭わず、外観にもほとんど手を入れていないので、建立当時のままの彫刻などが残っています。本堂正面の4枚戸には『梅に鶯』『松に鶴』等それぞれに意味のある彫刻が施され、梁や軒にも様々な彫り物があります。いつまでも見ていた〜い、時間が足りな〜い。

バスで移動。町の中心部を抜け、円山脇を通って(樺戸集治監の建っていた所から)約3km奥へ。途中からはバスがやっと通れる幅の砂利道です。

【水道遺跡】
昭和56年頃に月形小学校校舎建設工事中に木管(水道管として使われた)が出土したことから調査が進められ(第1期調査)、現在の位置に水道遺跡(3段堰堤方式ダムと取水施設)が発見されました。発見当時、現場は笹藪に覆われ、囚人達が焼いた煉瓦によって作られた構造物(廃砂門、取水塔、制水弁室)はかなり崩れていたそうです。調査終了後には埋め立て保存されました。
平成10年には第2期調査が行われ、ヨーロッパから輸入された鋳鉄管が出土!! この水道遺跡の重要性(ひいては樺戸集治監がいかに重要だったか)がよく分かる発見でした。
この水道遺跡によって供給される水は、樺戸集治監だけでなく町民へも分配されたとのことです。

バスで移動。円山公園周辺へ。

【円山杉林】
車窓からの見学。明治23年、樺戸集治監開庁10周年記念として囚徒によって植えられました。
詳しくはこちらのブログ記事で。

【展望台】
円山頂上(海抜83m)に立つ、黄色の三日月型展望台。今年の春先、展望台より大きく育った円山の木を整理し、展望台建設当時の展望が復活しました。
樺戸集治監はじめ北漸寺、石狩川、月形から三笠方面にまっすぐに伸びる峰樺道路(空知集治監への陸路を確保するため、三笠の達布山と月形の円山にかがり火を目標にして開削された道路。囚人達の大きな犠牲により完成。全長16km)、監獄田んぼがあった農事会地区の水田等、月形の歴史の要所が一望できます。

【歴代典獄記念碑】
樺戸集治監開監から閉監までの39年間に集治監を治めた典獄は8人。それぞれの典獄の実績や地域への貢献を記した石碑。功績を歴史に残したいと昭和36年建立。

バスで移動し、出発地点の博物館に戻って解散。
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約2時間半のツアーは見所が多く駆け足状態でしたが、宝があちこちに隠れているのを再発見できました。また「もっとじっくり見たいね〜。」「またやってほしいわ。」「とても楽しかった。」と、参加者からの声が寄せられるほど満足度の高いツアーでした。これはやはり、熊谷さんのガイドがあってこそ、そして企画した役場担当者のアイデアと準備の賜だと思います。

気温の高い中、要所要所で的確な解説をする熊谷さん、さぞやお疲れになったことでしょう。本当にありがとうございました。熊谷さんのお陰で現代と明治とをつなげることができ、目の前の景色に奥行きを感じました。先人の力があって今の私たちがあることを再認識させられ、とても有意義な時間を過ごすことができました。

今回のツアーには観光のヒントがありますね♪

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