2012年06月19日

米沢富美子さん、ありがとうございます。

外は田植えが終わって半月以上が経過し、田んぼの緑が目に鮮やかになってきました。

6月定例会・一般質問が終わって1週間。お伝えしなければならない内容もありますが・・・

それに今日は6月にして台風上陸。現在、北関東から南東北あたりを台風の目が通っているもよう。被害も少なからず発生しているようです。どうか最小限の被害にとどまりますように。

このような状況ですが、今日はひとまずいつもと違った話題で。



ここのところ毎朝ドキドキ、朝が来るのが待ち遠しいのです。
それは・・・「私の履歴書(日本経済新聞)」。
今月は、慶応大学名誉教授で物理学者の米沢富美子氏のお話です。

小学生時代にIQ175(!?)というところからして普通ではないのですが、その後の人生における発想や行動力もとてつもなくて、驚きの連続です。それに昭和30年代〜40年代に仕事を持ちながら子育てもして、世界に通用する研究も。
現在進行形の連載が今後どう展開していくのか、目が離せません。
とにかく凄くて圧倒される展開、そして毎朝元気をいただいています。

それにしても、こんなスゴイ女性が日本にいたことを私は今まで全く知らず、申し訳ない気持ちです。
米沢富美子氏はまさしく働く女性のロールモデル。能力の違いは横に置いて、こんな風に「あれもこれも手にすることも可能なんだ!」「女性はここまで頑張れるんだ!」という、希望が見えます。

そうそう、記事の中で心に留めておきたい文章があったので、抜き書きしておきます。

大学院時代の指導教授、松原武生先生の口癖を思い出した。全ての勢力と時間を3等分して「テーマ探し」「実際の研究」「論文書き」に配分せよという教えである。2番目の「実際の研究」が全てだと思い込む傾向があるが、本当は、最も適切なテーマを掘り出す1番目と、成果を確実に発表する3番目も同じくらい重要だとたたき込まれた。

                日本経済新聞/私の履歴書(2012年6月17日)

議員活動に置き換えれば、こういうブログでの活動報告の重要性を説いているわけです。反省。
気合いを入れると共に、時間がとれるよう環境改善せねば!

2012年05月28日

会話から生まれる発想。会話で深まる思考。

この1週間は実に多くの人と「会話」する機会がありました。

その中で最も多くの人と話したのは、先週末から今日にかけて(5月26日〜28日)参加した『第17回全国小さくても輝く自治体フォーラム』(会場:北海道東川町)と、そのアフター研修(現地視察:東川町、剣淵町、西興部村、下川町)でした。

※写真は西興部村の興部川(おこっぺがわ)河畔。オホーツク海に近く寒さが残る地域で、この時の気温は3.6℃(街の温度計)。浅い新緑がとても綺麗でした。


フォーラムでは北海道内を中心に「小さくても輝いている自治体」の特徴的な施策や考え方をたくさん聴く機会を得ました。主催団体が違うと発表者や解説者の顔ぶれが大きく違ってくるので、初参加の私にとってはとても新鮮な切り口でした。
また、現地視察では「こだわりの施策」について丁寧な解説を受けると共に、現場の空気も感じてきました。やはり足を運ぶことは大事ですね。同じ道内でありながら剣淵町以外は初めての視察になりました。(観光等で行ったことはあっても、自治体運営については視察でなければ解りにくいですからね。)
加えて、全国各地・近隣自治体からの参加者や地元民の皆さんとの会話は、意外な発見が次々と・・・。

こういうフォーラムに参加するといつも感じるのは「目の前は暗闇ではない」ということ。行政課題についてどう進めるべきか迷うことも、必ず先進事例やアイデアがあり、微かであっても「行くべき道に明かりは灯っている」のです。今回のフォーラムでも「自治体運営はアイデア次第で、それを現実にするための気概と努力があれば対応可能(そういう時代になっている)」と再認識できました。

※お世話になった皆さん、ありがとうございました。
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この他、先週初めには専門誌【日経グローカル 2012年5月21日号】の「奮闘地方議員」に私の書いた記事が掲載され、思いも寄らない方からメールをいただいたり・・・。
まもなく迎える月形町振興公社の株主総会に向けて情報交換したり・・・。

いずれ個別に報告したいと思っています。


数々の会話から新たな発想が生まれ、思考も整理されていくんですね。

2012年05月17日

月形町に副町長は不要?・・・副町長空席の現実

月形町では現在、副町長が不在(空席)の状態になっています。これは、前副町長の土橋正美氏の任期が5月15日までで、その後任人事が為されなかったことに寄ります。

なぜ副町長を空席にしたのか?・・・理事者(町長)から議会への説明は一切ありません。

そもそも副町長の任期切れ前に、理事者側から議会に対し、今後の行政運営の方向性を何らかの形で伝えるべきだったと考えます。聞いたところに寄ると、議長にも正式な話しはなかったとか。
(私の耳にも4月の後半頃には「副町長の後任は置かないらしい。」とは聞こえてきていましたが、それはあくまで噂話程度。少なくとも議会や議員という立場で聞くことはありませんでした。もちろん「空席の理由」や「空席の期限」については噂すらありません。)

3月の定例会以降に正式な会議の場(全員協議会等)は全く開かれていませんが、話題があればいつでも開くことは可能ですし、いつでも議員は集まります。
議員も理事者も顔を合わせる機会のある年度末から年度初めのこの時期、表だって「副町長が空席になる」ことが話題に出なかったのも事実。副町長の空席方針がいつ決まったのかも気になる点です。

副町長の人事は議会の承認案件です。それに副町長は今までの行政運営上重要な役割を担ってきました。それを何の説明もなしに空席にするとは・・・各種組織での役割は滞りなく継承・分担されるのでしょうか?・・・何の説明もないままの「副町長の空席」は大きな疑問ですし問題を感じます。

5月31日には「まちづくり常任委員会」と「全員協議会」が予定されていますし、6月には定例会があります。既に副町長は空席になった状態ですが、理事者からの説明を待ちたいと思います。
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今回の件で議会に対し説明がなく、日々日常のように進んでいる実態を見ていると、ちょうど2年前のことを思い出します。切手事件を発端に教育長が辞職した件です。あの時は、定例会での緊急質問で説明が為されました。

あの時の混乱から、執行部は、行政運営における「説明の重要性」を身をもって感じたのだと思っていたのですが・・・ 今回の件も含め、残念なことがいっぱいです。


2012年05月16日

2012年5月15日、沖縄復帰40周年の日に想う

沖縄の本土復帰から40年。特集番組や記事を見た。

これまでも【沖縄本土復帰記念日】には同じように沖縄が取り上げられてきただろうに、今回は今までとは全く違った感覚を持った。私自身の変化によるところが大きいが、その背景には、東日本大震災とそのがれき処理問題、普天間基地移設問題、尖閣諸島をはじめとする領土問題など、「国と地方」について考える機会が多かったことによる。

「本土の人は、沖縄の基地問題を『地方』の問題と考えているのではないか。これは国の問題だ。」
「本土の人が沖縄に来て『海が青くて綺麗ね〜』と喜んで帰る。それでは沖縄を何も見ていない。」
「復帰しても基地はなくならなかった。経済的には良くなったが、日常は何も変わっていない。」

特集番組中での沖縄県民へのインタビューで印象に残った言葉だ。


沖縄復帰の時、私は5歳で記憶はない。
小学6年の時、担任の鈴木先生が涙ながらに「ひめゆりの塔」の話しをしてくれたのを思い出した。
2000年の九州・沖縄サミット、『平和の礎(いしじ)』は衝撃的だった。

私には断片的知識しかない。
もっと知って考えて、後生にもつないでいくことの必要性を改めて感じる。

2012年05月06日

42年ぶりの[原発ゼロ]に思う

2012年5月5日、国内で唯一稼働していた原子力発電所/北海道泊3号機が定期検査のため停止。これで、国内にある商業用原子力発電所50基全てが止まり[原発ゼロ]の状態になった。

東日本大震災が起きるまで、こんな早い時期に[原発ゼロ]の日が来るとは・・・考えられなかった。
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というのも、私が小学校で習ったのは「日本の電力は、火力7割、水力2割、原子力1割」の時代で、原子力発電が既に生活の一部になっていた。それにオイルショック以降「原子力発電は安定的な電力源」と言われ、割合を増やしているときだったから。
それから「原子力発電は需要があってもなくても一定量発電するので、夜間は余剰電力となってムダになってしまう。それを活用するのが揚水式発電(夜の間に水をくみ上げ、昼間に水力発電する方式)。家庭向けには夜間電力割引を導入して、需要の平準化を計っている。」とも教わった。
「へ〜」と感心したので頭に強く残った。原子力発電は極当然に暮らしの一部だった。

その後【核廃棄物と処理】の問題を知り「原子力発電を続けて大丈夫なのだろうか?」と疑問が湧いてきた。

そして【スリーマイル島原発事故】【チェルノブイリ原発事故】。どちらも衝撃的で、報道に釘付けになったのは言うまでもないが、私の中で最もショックだったのは1999年に起きた【茨城県東海村JCO臨界事故】。
放射性物質を扱うのは徹底管理された場所と人だけだと思っていたのに、普通の実験棟の中でバケツを使って混合するなんて!! そんな簡単に放射性物質を扱う人がいることが信じられなかった。
ラジオから流れる事故の第一報で「作業員が、青い光を見た」と聴き、全身に鳥肌が立ったのをハッキリと覚えている。開放された空間で臨界が起きているなんて!! 放射線を浴びるとはどういうことか、生々しい現実を目の当たりにして身がすくんだ。

しかしながら政府は「温暖化防止のためにはCO2削減が欠かせない。原子力発電は有効」という展開に。この論理展開に全く納得できなかったが、いつしか原発は全電源の3割(北海道電力では4割)を占めるまでになっていたし、これからも延びる計画に・・・。「原発がゼロになる」なんて、とても考えられなかった。少なくともあと20〜30年は、今のままでいってしまうと思っていた。

2011年3月11日・東日本大震災発生。【福島第1原子力発電所事故】
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原子力発電が停止しているこの状況は、私たちから下の世代には初めての状況になる。
安定的に昼夜の分けなく供給される電気があることが前提で構築された暮らしは、もう過去のモノ。
今まで良しとされたものが、そうでなくなった。
今まさに《転換点》を迎えている。

そしてもう一つ。
国が決めたこと、国が望むことが最優先される時代ではなくなった。
個人の考えを表明する場も、つながる手段も増え、共感することが大きな力になる時代になってきた。
一人一人がどう考えるか、どう行動するか
地域がどう考え、どう行動するか
意思決定の方法も責任も、《転換点》を迎えていると感じる。

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